時には、議論しないことも大切なんですか?
親子関係は時にはむずかしいことがあります。
今回は、「母親ノート法:議論しないこと」を中心に書きます。
母親ノート法:議論しないこと
🟠母親ノート法:議論しないこと
<考えの不一致は当たり前>
親と子どもの考えが違うことがあります。
大きな問題で考えれば、進路や就職などの問題があるでしょうし、小さな問題では、旅行の行き先や何を食べたいかということがあります。
親と子で一致することもあるでしょうし、一致しないこともあります。
昔の日本では、多くの事柄を親が決め、子どもがそれに従うのがごく普通でした。
結婚相手を親が勧める見合い相手にするということも、第2次世界大戦以前では、ごく普通のことでした。
日本でも、子どもは、親の言うことをきくのが、当たり前という時代がありました。
世界の多くの国の中には、今でもそのような考えの国はたくさんあります。宗教に対する考えがもっと厳密で、親の信じる宗教を信じるのが普通で、宗教の戒律などを守ることが、当たり前の国もたくさんあります。
ある意味で、それらの国々では、自分の考えをもつ自由は少ないかもしれません。しかし、それが必ずしも不幸であるとは言えません。
親や周りの人と同じ考えをもち、同じ考えの中で、人生を生き、死んでいくのは、幸せなことかもしれません。
結婚という大切な問題も自分で決めずに、親が決めてくれるのです。それ以外の生き方を知らない人にとっては、ごく当たり前の幸せな人生だと思います。
しかし、今の日本をはじめとする西洋の国々は、自由が一番大切という世界で生きています。自分の考えをもつことが尊ばれ、自分の考えを出し、選択することによさをもつ世界です。
今の祖父母や多くの父母の世代では、ランドセルの色は、男の子は黒色、女の子は赤色というのが一般的でした。しかし、今は違います。百貨店などに行きますと、色とりどりのランドセルが並んでいます。
2001年にイオンが、業界初の24色のカラーのランドセルを売り出してから、いろいろなメーカーが多種多様な色や機能のついたランドセルを売るようになりました。それまでは、赤と黒以外のランドセルを買おうとすれば、オーダーメードで作るしかありませんでした。
このような自由な世界を私たちは生きています。
このような世界では、様々なことを自分で決めていく必要があります。そうすると、親と子どもの意見が一致しないことがあっても普通です。
<親はどこまで子どもを縛るのか>
しかし、親という存在は、不思議なもので、自由な世界に生きていながら、子どもが自由な考えをもつことを嫌います。できれば、自分と同じ考えをもってほしいと願います。
子どもが親と同じ考えをもつことが当たり前ではないのに、子どもの幸せを考えて、制限を設けたり、きまりを作ったりします。
ただ、子どもが小さい時には、家庭でのきまりを親が決めることはこれはごく普通のことでもあります。
例えば、「他の家庭では、小学生にスマートフォンを買って与えていても、うちでは、高校生になるまで持たせません」という親の考えがあってもいいと思います。
「他は他、うちはうち」という考えはとても大切な考えだと思います。
教育というのは、親や大人の考えや価値観などを子どもに植え付けることでもあります。
親や教師などの大人などが、子どもへ教育をしたり、躾やマナーを教えたりすることはとても大切なことです。
メディアリテラシーを教えないまま、スマートフォンを買い与えると、1か月に何万円も課金してしまうこともあるでしょうし、ネットのいじめを受けたり、子ども自身がネットいじめの加害者になることもあります。
性教育をきちんとしないままで、門限も決めずに自由に恋愛することを認めれば、子どもは妊娠したり、妊娠させたりすることも普通に起こるかもしれません。
きちんと勉強を続けなければ、自分の望む学校に進学できないでしょうし、自分の望む職業にもつけないかもしれません。
この社会には、人を騙す人がたくさんいますから、お金に対する教育を子どもにきちんとしないと、投資話やマルチ商法でお金を失うこともあります。お金の正しい稼ぎ方や使い方を知らないままで、無駄遣いをすればお金はすぐになくなります。
<議論しないこと>
親が正しいと思うことは、子どもが小さい頃からきちんと教え、躾けるのは親の勤めです。
ただ、子どもは自由な世界に生きています。その中で、子どもが自分の考えをもつこともごく普通のことです。
子どもが犯罪に関係するようなことを選ぶことを、多くの親は賛成しないでしょう。これは毅然と反対してよいと思います。ただ、親が賛成しないことでも、子どもは、自分の夢や生き方を選びたいと思うことがあるかもしれません。
友だちとの関係や進路への不安、学業不振などの様々な理由や、時には言葉にできないような問題のために、学校に行きたくないという選択を子どもがすることがあります。子どもが、不登校や登校拒否の状態になることがあります。
そのような不登校や登校拒否の状態の時に、親の選択できる方法はあまり多くありません。
東山紘久氏は、「母親と教師がなおす登校拒否ー母親ノート法のすすめ」(創元社・1984年)という本の中で、次のように書いています。
登校拒否をおこしている子どもとあなたとの会話を、お子さんには秘密で、できるだけ詳しく書いていただきたい。お子さんとの会話だけでよい。
今日から、登校拒否を起こしている子どもに対して、Sパターンの会話をやめて、できるだけTパターンの会話をしていただきたい。
子どもが快になることはする。不快になることは避ける。
母親と教師がなおす登校拒否ー母親ノート法のすすめ
そして、日々の生活において、「子どもと議論しないこと」を勧めています。
東山紘久氏は、次のように書きます。
意見が対立する場合、それにかかわる人が、お互いの立場を少し超えた地平に立たない限り空虚な議論が続く。筆者(=東山氏)は、これを「あんぱん・ジャムパン論争」と呼んでいる。あんぱんがうまいか、ジャムパンがうまいかの議論である。どちらがうまいかを徹底して議論しても、とうてい両者ともに満足のいく結論が出ない。悪い時には、この論争の過程で、更に、クリームパン党が現れたりして、ますます混乱させる。結局のところ、どちらもうまいし、どちらもまずいかもしれない。人の好き好きかもしれない。そして、このように考えられるのは余裕があり、両者の立場をちょっと超えた地平に立てた時である。空なる議論を超えるためには、相手より少し余裕を持つ、ちょっと上の観点から眺めることが必要である。ちょっと上の観点に立つとは、相手の立場や気持ちを認めることである。同一次元に立っている時は、相手との違いはわかっても、相手の立場を認めることはできない。相手の立場を認めるのは、相手の存在を認めることである。存在を認め合えない時は闘いしかなくなる。
母親と教師がなおす登校拒否ー母親ノート法のすすめ
東山紘久氏は、別にいつも子どもと議論をしてはいけないと述べているわけではありません。子どもが心理的な窮地に陥り、人生に悩み、不登校を選択するような場面においては、議論は、子どもの気力を消耗させ、いらいらを増幅させ、自己選択の機会を奪うことにつながると考えているのです。
子どもが元気になってから、将来の選択について、大いに議論すればよいと思います。
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