短歌について知りたいです。
日本特有の詩の形態に短歌があります。
今回は、「短歌」について書きます。
短歌:言語文化②
🟠短歌
<短歌とは?>
短歌(たんか)とは、日本の古来からある和歌の1つです。詩歌の1形態です。
短歌は、5・7・5・7・7・の5句31音でできています。
三十一文字(みそひともじ)と呼ばれることもあります。
短歌は、文字数がきっちりと決まっていますので、定型詩です。
<短歌の歴史>
短歌は、後から紹介する長歌や旋頭歌と合わせて、日本の最古の歴史書と言われる古事記や日本書紀の中にも見られます。
この2つの歴史書にある和歌のことを「記紀歌謡」ということがありますが、古事記には、112首 、日本書紀には、128首の和歌があります。
このように和歌の歴史はとても古く、日本人に昔から愛されてきた詩歌です。
古事記や日本書紀の後に、残っている短歌を集めた歌集に、万葉集があります。
万葉集は、全20巻もあり、その中に、約4500もの和歌が収められています。
万葉集の大きな特徴として、天皇や貴族から防人や大道芸人、農民などの一般の庶民まで身分を問わないで和歌が選ばれていることです。和歌の前では、身分を問わないという姿勢は、世界的にも極めて特異な文化といえます。
万葉集には、7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の和歌が収録されています。万葉集ができたのは、759年から780年(宝亀11年)までの間だとされています。
編纂には、大伴家持が関わったとされています。
万葉集の後には、平安時代に貴族社会を中心に、和歌を詠む文化が発展しました。その頃に編纂されたのが古今和歌集です。
古今和歌集は、醍醐天皇の命を受けて、905年(延喜5年)に、紀貫之、紀友則などが撰者になって編纂されました。その後も、平安時代から室町時代にかけて勅撰和歌集は21集作られています。
短歌を中心として和歌の文化は、武家社会になっても、日本の中で途切れることなく続いています。
<百人一首>
日本の和歌において、代表的なものに「百人一首」があります。
百人一首とは、100人の和歌を一首ずつ選んで作られた秀歌撰です。
藤原定家が、京都の小倉山で、鎌倉時代の初めに、毛筆で書いたとされる「小倉山荘色紙和歌」に基づくものが、「歌がるた」として少しずつ知られるようになり、徐々に「小倉百人一首」として定着していきます。
ポルトガルなどの南蛮から「かるた」が伝わった戦国時代の頃に、百人一首が「かるた」として遊び始められます。はじめは宮中とか諸大名の大奥などで行われ、それが年間行事となったようです。
この時代の「かるた」は、まだまだ庶民の間では、まだまだ馴染みの薄いものでした。
しかし、江戸時代に入り、木版画の技術の発展や、ポルトガルから伝わった「かるた」を取り入れることによって、庶民の中に徐々に広まっていくことになります。
やがて、「民用小倉百人一首」などが出版されます。元禄(1688年~1704年)の頃から一般の庶民の間にも広がり、「和歌かるた」と言えば「小倉百人一首」のことをさすようになりました。
百人一首の歴史はとても古いのですが、「小倉百人一首」が正月の楽しみとして各家庭でも行われるようになったのは、ずっと後の安政(1855年~1860年)頃からだといわれています。
その後、百人一首を競技として楽しむ「競技かるた」が生まれました。
百人一首を用いた競技は、明治時代(1868年~1912年)以前から行われていましたが、そのルールは地方やかるた会によってまちまちでした。
競技かるたのルールの統一が図られたのは、1904年(明治37年)にジャーナリストの黒岩涙香さんによってです。黒岩さんは、「東京かるた会」を結成して、第1回の競技かるた大会を開催しました。その後、ルールについては微妙な修正を経て、現在に至っています。
競技かるたの全国団体としては、1934年(昭和9年)に「大日本かるた協会」によって全国統一が図られました。その後、戦中、戦後の分裂を経て1957年(昭和32年)「全日本かるた協会」に統一されました。「全日本かるた協会」は、1996年(平成8年)に、社団法人の認可を受けて、現在に至っています。
協会は、1955年(昭和30年)から男子選手の最強を決める名人戦を主催しています。その後、1957年(昭和32年)からは、女子選手の最強を決めるクイーン戦を主催しています。
1979年(昭和54年)からは、「全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会」が開かれています。「全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会」は、百人一首を用いた競技かるた大会のひとつです。毎年7月下旬に、滋賀県大津市の近江神社で行われます。
全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会は、末次由紀さんによって描かれた少女漫画「ちはらふる」によって有名になり、テレビアニメや映画にもなりました。
漫画のよさ 伝記の漫画家たちに進む(内部リンク)
<短歌以外の和歌>
短歌以外の和歌には、長歌(ちょうか)と旋頭歌(せどうか)があります。
長歌は、和歌の一形式です。基本的には、5音と7音の句を、「5・7・5・7」と何回か繰り返して、最後は「7・7」と結ぶのが標準的な形です。
長歌があったので、短歌ができたとされています。
先程紹介した万葉集の中には、伝説や言い伝えに関係するお話を題材とした長歌もあります。
私が子ども用に作成している「よみもの」に兵庫県の「求女塚(もとめづか)」というお話を載せていますので、よければ読んでみてください。
求女塚(もとめづか)① 兵庫民話に進む(外部リンク・よみもの)
求女塚(もとめづか)② 兵庫民話に進む(外部リンク・よみもの)
求女塚の今と昔に進む(外部リンク・よみもの)
旋頭歌も、和歌の一形式です。和歌の形式の「5・7・5・7・7」の音を基本としますが、「577・577」のから成ります。
古事記・日本書紀の歌謡に4首、万葉集に62首収録されています。
「旋頭」とは、頭の三句を下三句で繰り返すという意味です。
「5・7・7」という片歌形式を、二人で唱和していたものが、後に一人で歌われるようになったといわれています。
<近代の和歌>
近代の和歌の歌人には、素晴らしい人がたくさんいます。
個人的に、近代の和歌の歌人として好きな人に、石川啄木(いしかわ・たくぼく)さんがいます。
石川啄木さんは、1886年(明治19年)岩手県で生まれました。1912年(明治45年)に亡くなっています。本名は石川一(いしかわ はじめ)さんです。
石川啄木さんの短歌の特徴は、短歌を3行のスタイルで書いたことです。そして、自分自身の過ごした時期について歌った短歌を発表しています。初恋に目覚めていたという少年時代から、それが作品に表現されています。また、妻の節子さんと迎えた新婚生活の様子も描いています。 そして、故郷の盛岡について描いた短歌も多いです。日常的な事柄について描かれた作品が多いです。
ふるさとの 訛なつかし停車場の 人ごみの中にそを聴きにゆく
わが妻の むかしの願ひ音楽の ことにかかりき今はうたはず
東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる
石川啄木歌集 一握の砂・
<現代の和歌>
現代の和歌にもたくさんの素晴らしい歌人がたくさんいます。
その中でも、私が画期的だと思うのは、俵万智さんの作品です。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
俵万智 サラダ記念日/サラダ記念日
俵万智さんの短歌は、多くの教科書で紹介されていますので、知っている人も多いと思います。
なお、俵万智さんの名言については、次のページに載せています。合わせてお読みください。
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