コミュニケーション能力育成の必要性:修士論文07

修士論文
つばさ
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修論7回めでは、コミュニケーション能力育成の必要性について書きます。

 修士論文の7回めです。

 今回は、「コミュニケーション能力育成(音声言語教育)の必要性:修士論文07」についてです。

コミュニケーション能力育成(音声言語教育)の必要性:修士論文07

🟠コミュニケーション能力育成(音声言語教育)の必要性:修士論文07 

 今回は、「第2章:コミュニケーション能力育成の必要性」の中の「第4節:コミュニケーション能力育成(音声言語教育)の必要性」について書きます。

<コミュニケーション能力育成(音声言語教育)の必要性>

 この節では、コミュニケーション能力を育てる教育(以下、音声言語教育と記す)の必要性について述べていきます。

 人は集団の中で生きています。家族という小さな集団の場合もあれば、学校、地域、会社という大きな集団の場合もあります。多くの場合、そこには自分以外の他者が存在します。そして、その他者との関わりの中で一日を過ごすことになります。ことばを上手に使えることで人は他者と円滑な人間関係を結び、気持ちよく生きていくことができます。これまでは、話しことばの教育の必要性が意識されることは少なかったです。教師自身にも意識されることが少なかったのは前の第3節で述べたとおりです。

 しかし、これからは、自分の気持ちや考えを表現したり、相手の伝えていることを理解したりということを、音声を使ってきちんとできる教育を学校で行う必要がますます重要になってくるでしょう。その理由を「社会」「家庭」「子ども」の3つの視点から考えていきます。

1.社会の変化

 学校で音声言語教育を行う必要がある理由の1つ目は、国際化という社会の変化です。日本は、長い間、同じことばを話し、同じ価値観を有する大多数の人々が狭い地域の中で過ごす等質な社会でした。

 村松賢一さんは、次のように述べています。(※1)

 一を聞いて十を知ることが尊ばれる社会では、「察し」という省言語的コミュニケーションが発達する。分かっていることをくどくど説明することは野暮であり、分からないことを訊く者は察しが悪いと疎まれる 

いま求められるコミュニケーション能力

 このような社会では、「沈黙は金、饒舌は銀」とされ、ことさら上手に話をしたり、話をするために専門的な教育を行ったりする必要などありませんでした。

 しかし、世界は急速に狭くなり、日本を訪れたり、日本で働いたりする外国人の数は飛躍的に伸びました。実に人口の1パーセント以上の人が外国人であり、同じ価値観を有する等質な社会ではなくなってきました。そこで、必要なことは、互いの考えを述べ合い、聞き合い、互いの考えを知り合うことです。そして、たとえ上手でなくとも、きちんと自分の考えを伝えたり、誠実に相手の考えを理解ようとしたりすることです。価値観や立場の違う人に自分の考えたり、相手の考えを理解したりするのに必要なのものはことばです。村松さんは、次のように続けます。(※2)

 二十一世紀は異文化共生の時代である。誰もが好むと好まざるとにかかわらず、習慣や考えの異なる他者とことばを介して理解を深め共存していく態度、能力を身につけることが求められる。 

いま求められるコミュニケーション能力

 価値観や立場の違う人に自分の考えたり、相手の考えを理解したりするのに必要なのものはことばです。現在東京や大阪といった大都会だけでなく、多くの町で、日常的に外国人を見かけることも増えてきました。海外旅行をする日本人も多いです。

 社会が国際化という変化を続けていく中で、ことばには、意思を疎通させていく働きがあるということを、子どもが体験的に知ることは、意味のあることです。

2.家庭の変化

 学校で音声言語教育を行う必要性が増す理由の2つ目は、家庭の変化です。話しことばの教育を学校でしなくても、子どもは、日常生活の中にいることで自然に形成されていくという考えが多くの人々の中にあったのでしょう。日常生活、特に家庭の中で家族と話をして意思の疎通を図っているから大丈夫と思う考えがあったに違いありません。しかし、児童虐待ということばが流行するように、家庭において、親が子どもの面倒を十分見ることができないだけでなく、どう接していいかわからないという親までいるのが現状です。

 朝日新聞の家庭欄に虐待はしないまでも、子どもとどう接していいかわからない母親の次のような記事が載っていました。(※3)

 京都市近郊に住む主婦の山田順子さん(三五)=仮名=は、子育て立てサークルの集まりに顔を出すと、複雑な思いにかられる。我が子の振る舞いに寂しさを覚える一方で無理して子どもと遊ばなくてもすむと、ホッとする気持ちを抑えられない。

 三年前、会社員の夫との間に、元気な赤ちゃんが生まれた。子育てと家事に追われる日々に慣れてきたころ、我が子とうまく遊べない自分を意識し始めた。

 近所には、遊び友達になるような子どもはほとんどいない。日中、相手をしてあげられるのは自分だけ。せがまれて遊んでも、長続きしない。五分か十分。あとは、「ハイ、これで遊んで」とおもちゃを渡すのがせいぜいだ。

 子どもがもともと苦手だった。サークル仲間の子どもが自分の方へやってくると、身がすくむ。どう応じていいかわからない。愛想笑いを浮かべすぎて、ほおの筋肉が痛くなったことがある。

朝日新聞 2001年1月3日号 25面

 子どもにどう接していいかわからない母親の素直な心情が語られているのですが、母親の立場に同情しつつも、このような母親に育てられた子どもの受けるであろう悪影響の方が心配な話です。子ども、特に乳幼児は、多くの場合、母親とのコミュニケーションを基盤として、ことばを獲得していきます。子どもは母親によってことばを与えられるといっても過言ではありません。子どもがことばを獲得していく様子について、倉八順子さんは、次のように述べています。(※4)

 最近の研究で、母親の語りかけを早く模倣できる幼児ほど、早くことばを話しだすことがわかってきている。子どもの模倣行動が、子どもの認知能力の発達に大きく寄与するからである。そして、九カ月期ごろになると、子どもは、ことばが使えるようになるための次の三つの認知能力を備えるようになる。

 一つは、外界の事物から客観的なものとして永続性を持って認識できるようになることである。それまで目に映るものには興味を示しても、目に見えなくなると興味をなくしてしまっていたのが、九カ月ごろになると、目に映っているものを手がかりにして、目に見えていないものの存在も認識できるようになる。

 二つめは、他者の存在が認識できるようになることである。対象となる相手が確固とした存在として認識されていていることが、対応的なコミュニケーションを結果するのである。三つめは、他者とは異なる自分自身の存在が認識できるようになることである。自分自身の情動の芽生え、感情をもった自分という存在を認識するようになる。人は、この自分の内部から生じた感情を表現しようとして必然的に、コミュニケーションを行う。

 九カ月ごろの子どもは、身体的成長に伴い、発声器官も整ってくる。発声器官の発達と認知能力の発達があいまって、人はことばで自分自身の感情を特定の他者に伝えたり、ことばで第三の存在の意味世界にかかわることができるようになるのである。

こころとことばとコミュニケーション

 しかし、先ほどのような母親の増加を考えた場合、子どもが家庭だけでことばを獲得していくことは今まで以上に困難になっていくのではないかと考えます。

 中央教育審議会は、「幼児期からの心の教育の在り方について」諮問を受けた後、審議を重ね、1998年6月に「新しい時代を拓く心を育てるために」-次世代を育てる心を失う危機-と題された答申を出しました。その中で、「もう一度家庭を見直そう」という章を設け、家庭のあり方について7つの提言をしています。そのうちの一つは、会話を増やす必要性を説いており、次のように述べています。(※5)

 夫婦間あるいは親子間の心の絆を深め、家庭が精神的な機能を果たし、子どもの心をはぐくむ場となるためには、家族の間で豊かな会話がなされることが大切である。

中央教育審議会答申

 わざわざ家庭の問題にまで国が介入する必要があるほど、現代の家庭は、問題を抱えているのだともいえます。全ての家庭において、親子が十分な会話をしていないわけでも、家庭の教育力がなくなってきているわけでもないのですが、このような現状の家庭が増えていることを考えた場合、学校において、音声言語教育を行う必要性があるといえます。

 3.子どもの変化

 学校で音声言語教育が必要な3つ目の理由は、子ども自身と子どもを取り巻く実態の変化です。

 2000年は、「17歳」ということばが流行語になりました。精神科医の書いた「17歳-もしかしたらわが子かも」(※6)という本まで出版されました。「17歳」ということばを、10年ぐらい前に見聞きした場合、多くの人は、「ごく普通の健康で溌剌とした若者をイメージ」したでしょう。しかし、2000年の「17歳」ということばには、青少年の犯罪行動多発というイメージが浮かんできます。逮捕後、「人を殺す経験がしてみたかった」ということばを残した愛知県の高校生。バスを乗っ取って乗客3名を殺傷した高校生。このような行動をみると、ことばを使って感情を伝えたり、感情を抑えたりしないで、すぐに気持ちを行動に移してしまう姿勢が悲しくもあり、どのようなことばの教育を受けてきたのかと訝ってしまいます。

 同じように「キレる」ということばもよく耳にします。有働玲子さんは、「感情的なキレ方」をし、事件を起こす子どもが多い状況について次のように述べています。(※7)

 この状況は、1980年代に全国で、嵐のように起きた学校管理に対する集団的な反抗とは全く異質であり、むしろ個々バラバラの事件の多発といういう側面をもつ。あくまでも突然に発生し、いきなり自分の感情が剥き出しに表出されると言われる。ここには、自分を相対しつつ表現しようとする言葉、自らの情動の高まりを抑制する論理的なことばは、悲しいことにほとんど見受けられない。

 このような「キレ方」は、パーソナルコミュニケーションの能力を論じる者に大きな問題を投げかけている。子供たちがコミュニケーションに用いることばや記号、コードが大きく変化しているのだ。

教室におけるコミュニケーション能力育成のために

 有働さんが述べるように、個々の子どもの問題であり、全ての子どものコミュニケーション能力に問題があるわけではありません。しかし、一部の子どもの問題とはいえ、ことばの力のもつ抑止力といったはたらきが、全然育っていない子どもがいるのも確かなことです。 

 このような現状を嘆き、有働さんは、次のように続けます。(※8)

 このような現状を見るにつけ、国語教育としての取り組みについて考えざるを得ない。なぜならば、子供の表現力を育成することは、国語教育の重要な使命のひとつだからである。昨今の子供たちの抱えている先のような問題性に正面から立ち向かうことができなければ、その存在意義を問われることとなろう。

 もちろん、ことばとコミュニケーションの問題、話しことばによるコミュニケーション能力の育成といったことは、学級あるいは学校という枠組みだけで考えられるような課題ではない。家庭あるいは地域社会といった、より広い枠組みを視野に入れなければならない問題である。だか、それが正論であることを十分認めたうえでも、やはりコミュニケーション能力を育む話しことばの教育は、その多くの部分を学校教育に負うことが期待されているといえよう。

教室におけるコミュニケーション能力育成のために

 子どもの変化は、子どもが「キレ」たり、事件を起こしたりする形だけで起こっているのではありません。意思の疎通を図ることが苦手、自分の考えを伝えることや、相手の考えや気持ちをきちんと受け止めることが苦手という子どもが多くいるという現状にも表れています。 

 意思の疎通が十分行われていないことから起こる大きな問題にいじめがあります。いじめの問題を考えた場合、する側とされる側にコミュニケーションが十分図られていないという状況があります。思ったことを相手の受けとめ方も考慮しないで言った場合、言った方にいじめているという意識はなくとも、言われた方はいじめと受け取ることもあります。誰もがいじめられる側にはなりたくないのですから、互いが自分の考えや感情をうまく、的確に伝えることができ、相手の考えをうまく理解しようとすることができれば、いじめはもっと少なくなるでしょう。たとえいじめられたとしても、相手にいやだと伝えること、親や教師に助けを求めることなどができれば、いじめという状態を変えていくことができます。しかし、いじめられているという状況を周りの人に伝えないまま命を絶つ子どもがいます。子どもにとっては、たいへんな思いをしているのはわかるのですが、なぜ自分の考えを伝えないまま、意思の疎通を周りの人に図ろうとしないまま死んで行くのでしょうか。このような事件を見聞きするにつけ、音声言語教育の必要性をより強く感じます

 有元秀文さんは、次のように述べます。(※9)

「音声言語教育」の目標は、音声言語によって、相互交流的なコミュニケーションが達成されることだと思っている。なぜなら、子供達の不登校が増加し、いじめ自殺や凶悪犯罪が頻発する今、最も求められていることは子供と子供、子供と教師・家庭・地域共同体との相互交流を推進すること以外にないと信じるからである。

音声言語教育で相互交流的なコミュニケーションは達成されたか

「話すこと・聞くこと」という活動には、2者以上の双方向の関係が必要です。話す人と聞く人がいないとこの関係は成立しません。「ヘルプ」という遺書を書いた後で自殺した子どもがいます。この子の場合、文字を「書くこと」で意思を伝えようとしたのでしょう。しかし、残念ながら、その場で伝えたい人に伝えることができませんでした。同じことばをもし、直接音声で、親や先生や友だちに伝えることができていたら、死なずにすんでいたかもしれません。音声と文字は同じことばですが、働きに違いがあります。音声ということばのもつよさを、子どもが体験的に知ることができれば、子どもはことばをもっと使い、他者と意思を図ることで、身の回りに起こる問題を解決しようとするのではないでしょうか。

 以上が、音声言語教育の必要性です

(1) 松村賢一さん 1998年「いま求められるコミュニケーション能力」明治図書 P11

(2) 松村賢一さん 1998年「いま求められるコミュニケーション能力」明治図書 P17

(3) シリーズ「遊んでる?」② 2001年1月3日号 10版 朝日新聞「家庭欄」 25面

(4) 倉八順子さん 1999年「こころとことばとコミュニケーション」明石書店 P24

(5) 中央審議会答申では、幼児期からの心の教育の在り方について、家庭、地域社会、学校の3者に対してできることを具体的に提言しています。

(6) 北里信太郎さん 2000年「17歳 もしかしたらわが子かも」世界文化社

(7) 有働玲子さん 1998年「教室におけるコミュニケーション能力育成のために」日本国語教育学会「月刊国語教育研究」313号 P31

(8) 有働玲子さん 同上 P30

(9) 有元秀文さん 1996年「音声言語教育で相互交流的なコミュニケーションは達成されたか」明治図書「教育科学国 語研究」528号 7月号臨時増刊 P65

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