作家の「あまんきみこ」さんの紹介です。
国語の教科書には、さまざまな作家が出てきます。
そのような作家の中から一人を取り上げ紹介したいと思います。
今回は、「あまんきみこ」さんです。
あまんきみこさん:教科書の作家①
<簡単な経歴>
あまんきみこさん
1931年、旧満州の撫順市で生まれます。日本の児童文学作家です。
太平洋戦争の終戦は、中国の大連で迎えます。ソ連軍占領下の大連で2年ほど過ごした後、大阪に引き揚げてきます。結婚後、東京に引っ越します。その後、勉学の意欲に駆られて、日本女子大学児童学科通信学部に入学し、児童文学者の与田準一さんに出会います。
与田さんの勧めで、坪田譲治さん主宰の「びわの実学校」に「くましんし」を投稿し評価をえます。
その後、「びわの実学校」発表の作品を集めた「車のいろは空のいろ」を出版します。
あまんきみこさんの童話作品は、「ちいちゃんのかげおくり」「白いぼうし」「おにたのぼうし」「名前をみてちょうだい」などたくさんの作品が、教科書に掲載されています。
<あまんさんの生まれたころの時代背景>
あまんきみこさんは、1931年(昭和6年)8月13日、旧満州の撫順市で生まれました。しばらくして、同じ満州の大連に移ります。
あまんさんが生まれた頃、日本は、世界と戦争をしはじめる前後でした。
あまんさんが生まれた1930年ごろ、日本は、世界恐慌の影響でとても不景気でした。その頃、
中国の東北部にあった満州は、日本にとって鉄鉱石や石炭などがとれる原料供給地でした。当時すでに日本は、満州でのさまざまな有利な権利を持っていましたが,さらに満州での権利を拡大したかった軍部は、外交政策で進めようとする日本政府と対立してしまいます。
そして,満州にいた日本軍は、1931年9月18日、奉天(フォンティエン・ほうてん)郊外の柳条湖(リウティアオフー・りゅうじょうこ)で南満州鉄道の線路を爆破します。それを中国軍のしわざとして日本政府の承認をもらわないまま中国軍に攻撃を始めました。国際社会に批判されながらも、軍部は満州全域を占領します。これが、満州事変と呼ばれる事件の概要です。
今のロシアのウクライナへの武力攻撃とよく似た行為を90年ほど前の日本も中国に対して行なっていました。
そして、日本からいろいろな理由で、満州や朝鮮半島、台湾などにたくさんの日本人が移り住んでいました。
それらの地域は、日本国内の北海道・本州・四国・九州などを構成する47都道府県を「内地」と呼ぶのに対して「外地」と呼ばれていました。
<そのころの外地>
○台湾
当時の中国・清王朝と日本の間で起こった日清戦争で勝利した後の講和・下関条約により、日本の植民地になります。
日本は、1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)の間、統治します。
○ 朝鮮
当時のロシア帝国と日本の間で起こった日露戦争で勝利した後の講和・ポーツマス条約により、日本の植民地になります。
日本は、1910年(明治43年)から1945年(昭和20年)の間、統治します。
○ 関東州(<満州国)
ポーツマス条約で清朝から租借地の権利を引き継ぎます。さらに、満州事変後、満洲国という傀儡国家を作り、日本が事実上、自分の国にしてしまいます。
日本は、1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)の間、統治します。
<「あるひあるとき」(のら書房・2020年)>
あまんさんは、子どもの頃に満州に住んでいた思い出を「あるひあるとき」という絵本で書かれています。
あまんさんが体験した、そのままの出来事ではないかもしれませんが、あまんさんと思われる「わたし」が出てくる絵本です。簡単な紹介をします。
幼いころのわたしは、こけしの「ハッコちゃん」となかよしでした。
ハッコちゃんは、わたしのお父さんが、日本に帰った時のおみやげの一つでした。
あまり友だちのいなかったわたしは、いつもハッコちゃんといっしょでした。
戦争中でしたので、時折、飛行機が来る空襲警報が鳴ることもありました。そのような時も、わたしは、ハッコちゃんを連れて防空壕に入りました。
1945年(昭和20年)の夏、戦争が終わりました。
それまで、日本だった地は、中国のものにもどりました。
でも、すぐに日本にもどれたわけではありません。それから、2年間、大連の地でくらしていました。当時、20万人以上いた日本人は、みんな日本に帰ることになりました。
その2年間の間、食べ物を買うものは、家にあるものを売って、手にいれていました。
売れなかったものは、寒い冬をすごすために、まきの代わりにして、ストーブの中で燃やされました。
日本に帰ることを「引き揚げ」といいました。引き揚げが3日さきに決まったとき、わたしのお母さんはそっと言いました。
「ハッコちゃんは、つれていけないのよ。」
わたしは、へやのすみにいって、うしろむきにすわり、ちょっとなきました。
いよいよ、あした、しゅっぱつという日。
わたしは、ハッコちゃんのあたまを、何回も何回もなでてから、お父さんにわたしました。
そのあとのことは、なぜか、おぼえていないそうです。
あまんさんは、この絵本の最後に次のような言葉を書いています。
今、私は深く祈る思いで、この絵本を見送っています。或る時代に生きた幼い子どもの身いっぱいの喜びと悲しみが、あなたの心にすこしでも届きますように。
そしてこの絵本で出会うことができたあなたや、絵本の中のユリちゃんたちのあかるくのびやかな笑顔の未来がいつまでもつづき、ひろがりますようにー。
あるひ あるとき
<あまんさんがファンタジーを描く理由>
あまんきみこさんの描く絵本や物語は、ファンタジーに溢れた作品がとても多いです。あまんさんの作品に出てくる登場人物は、誰もが心優しく、他者に対してとても親切です。
そのような心優しい登場人物がたくさん出てくるのは、あまんさんが、そのような心優しい人がたくさんいる世界を望んでおられるからではないかな、と思います。
今回紹介した「あるひ あるとき」と同じような戦争を扱った作品には、「ちいちゃんのかげおくり」があります。どちらの作品も声だかに、平和を訴えるのではありませんが、静かに平和の大切さが伝わってきます。
<しかけとしての「ぼうし」>
あまんきみこさんの作品は、教科書にたくさん載っていますが、東京書籍2年生の教科書に載っている「名前を見てちょうだい」、教育出版3年生の教科書に載っている「おにたのぼうし」、光村図書・教育出版・学校図書の4年生の教科書に載っている「白いぼうし」この3つの作品に共通して出てくるものは何か知っていますか?
それは、「ぼうし」です。
あまんきみこさんの作品には、しかけとして、「ぼうし」を登場させることがよくあります。
「名前を見てちょうだい」では、「うめだえつこ」と自分の名前がししゅうされたぼうしが風によって飛ばされて、ふしぎな世界に迷いこみます。
「おにたのぼうし」では、おにたは麦わらぼうしをかぶっています。おにたは、何も食べていない女の子の家に、「ごちそうがあまった。」とごちそうをとどけます。女の子が、「豆まきしたい。」とつぶやくと、悲しそうに身ぶるいをして、麦わらぼうしだけがのこります。
「白いぼうし」では、タクシー運転手の松井さんが、男の子がぼうしでつかまえたちょうちょをあやまってにがしてしまいます。仕方がないので、ぼうしの下に夏みかんをおいておくことにします。
どの作品でも、ぼうしがお話が進行する中で重要なアイテムになっています。
あまんきみこさんは、ぼうしのような日常生活の中で使われる生活用品を上手に作品の中に取り込むことで、お話を楽しくするのが得意です。
きっとあまんさんご自身もぼうしがお好きなのではないかな、と思います。
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